こんなだめな生活、すなわち「だめクラシー」になぜ急速に陥ってしまったのか。
どこかにターニングポイントがあったはずです。
しかし、それがわからない。
なぜわからないのか。
日記をつけていないからに違いありません(多少強引ですが)。
日記をつけていない、というのは正確ではありません。
小学生の頃からずっと「日記をつけたい」という欲望に囚われ続けてきました。
私の父親は、博文館の当用日記を何十年とつけていた人でした。
一日の終わりに万年筆で書いていました。
親を尊敬することはそれほどなかったけれど、日記に向き合う姿勢だけは立派だったと思います。
子供の頃はそれに影響されて、毎年末に日記帳を購入してきたものでした。
もちろん、毎年1月10日あたりで挫折するの繰り返し。
21世紀に入ってからは、パソコンやスマホアプリによる日記に挑戦しました。
こちらは思いついた度にスタートするのですが、やはり挫折。
結果、毎年数日分の日記の断片が紙や電子のさまざまな媒体に残されて、いったいどこに、いつの分が書かれているのか把握できない状態で現在に至っているのです。
「だめクラシー」を打倒するためには、まず日々の記録をつけることから始めよう。
また「日記を始めよう」が始まりましたが、そろそろ最後にしたい。
これからどのように残りの人生の日記を書いていくか、決めていきたいものです。